日米会話学院 お役立ち情報

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セイコーウオッチ株式会社 内藤社長と金野学院長による特別対談

  • 対談(Special Talk)

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セイコーグループ株式会社

日米会話学院は、1945年11月の終戦直後に官庁・企業などの要請により、英語教育を通して国際人として視野の広い教養ある市民を養成するための研修機関として設立され、これまで数多くの優秀な国際人を輩出してきました。

国際的に活躍し、海外の人と対等に渡り合うためには、英語力だけでなく、自分の意見をしっかり述べ、相手を説得できるディベート力がとても重要です。長年英語ディベート教育に尽力してきた金野学院長から、ディベートの経験を土台に華々しいキャリアを築き上げられたセイコーウオッチ株式会社の内藤社長に、その貴重な体験談を伺いました。

SPECIAL TALK

英語ディベートとの出会い

金野:本日は、 国際教育振興会・日米会話学院の学院長対談ということで、 とても素晴らしいお客様をお招きしました。内藤昭男さん、セイコーウオッチ株式会社の代表取締役社長でいらっしゃいますと同時に、セイコーグループ株式会社取締役専務執行役員という、大変な重職についていらっしゃいます。内藤さんが大学生の頃に母校の上智大学で英語によるディベートをされていたということで、英語ディベートとの出会いとディベートが人生に与えたインパクトを、華麗なキャリアを振り返りながら色々お話を聞かせて頂きたいと思います。

内藤社長は1984年に上智大学の法学部を卒業されてセイコーに入社されたわけですが、その後1993年、フルブライトの奨学生としてコロンビア大学のロースクール法科大学院で法学修士を取得されました。まず、上智大学ではどういうご縁でディベートをされるようになったのですか?

内藤:(以下 敬称略)
私は高校時代に一ヶ月間アメリカにホームステイをしたことがありました。学校にたまたまそういう募集が来たのを母が見つけて、「アメリカを経験してみたら?」ということで、一か月アメリカに行きました。 その時の経験が、茨城県の出身で田舎の高校生だった私には大変新鮮なカルチャーショックでした。その当時は1970年代の半ばですから、今と違ってネットもなくEメールでやり取りもできない中、ホームステイ先のアメリカの家族と一緒に一ヶ月過ごすという経験が非常に印象的でした。大学に行ったら、とにかく英語を勉強したい、英語を身につけてそのアメリカの家族ともっとコミュニケーションを取りたいという強い思いに至りました。それで上智大学の法学部に入った時に、課外活動やサークル活動で英語をやりたいと思いました。当時、5歳年上のいとこが立教大学でディベートやっていたので、彼女から「英語を身につけるのに一番の早道はディベートだから、ESSに入ってディベートしたら?」と勧められたのが、ディベートとの出会いでしたね。

金野:上智大学にはソフィア杯というのがありますね。私も、1970年代ですけれども、ソフィア杯のジャッジとして何度かお伺いしたことがございます。大学ではディベートはどんなテーマで大会に参加されていたのでしょうか?

内藤:上智のESSの中でディベートチームは40人くらいいました。 上智大学は帰国子女も多く特に女子は英語が優秀でよくできる人たちがたくさんいまして、一年目は大変苦労しました。ディベートのトピックというのは、年に春と秋と2回でテーマが変わりますが、だいたい政治経済的なテーマが多く、例えば、「食糧管理法を撤廃すべきである」とか、「原子力発電はもうすべて廃止すべきである」とか、それで肯定側と否定側に分かれて議論を戦わせるというやり方でしたね。

金野:そうしますと内容も結構チャレンジングで、それをさらに英語でやるのですね。準備をする中で、ご苦労されたことはありますか?

内藤:最初はディベートのことが全くわからないものですから、ディベートのルール、フォーマットから勉強して、テーマごとにまずはリサーチをしなければいけませんので、国会図書館や有栖川宮記念公園の都立中央図書館に行って関連の書籍を積み上げてリサーチしました。いわゆるエビデンスを情報カードに、どういう議論があるのか、どういう有識者がどういった説明をしているのかのデータを集めて、それを英語に直して、どういう議論の可能性があるのかを組み立てていき、実際に練習試合で使って議論する、といった形ですね。

今であれば、生成AI ChatGPTがあったり、Google先生に聞けばネットで相当情報が出てくると思うのですが、当時はそういうものがありませんので、紙の書籍や新聞のスクラップからスタートして、一つ一つ情報を紙で蓄積して行くと言う作業でした。今でもすごく覚えているのですが、環境政策に関するテーマのディベートの時に、日本の下水道事情について、環境政策の中でどういう問題があるかみたいなことを調べた時に、「月間下水道」という雑誌があることが分かりまして、それでいろいろ調べたりしました。今どうなっているのかわかりませんけど、当時は業界ごとの細かな情報メディアみたいなものがあって、今まで分からなかった世界をどんどん掘り下げていくみたいなことをしていましたね。

英語ディベートによって広がる世界

金野:内藤さんは「日米交歓ディベート」で日本の代表としてアメリカに行かれましたね。パートナーの方もいらしたと思いますが、それはどのようなプログラムだったのでしょうか?

内藤:当時、アメリカと日本とで、隔年でディベーターを交換して、代表チームが相手の国の大学を回ってディベートするというプログラムがありました。 日本側の代表の選考に1981年の暮れに応募して、翌年春に私ともう一人当時の青山学院大学のESSでディベートをやっていた松山一雄さんという方が日本代表チームに選ばれました。彼は今アサヒビール株式会社の社長をやられていますね。

金野:ディベートを大学で学び、実業界に入られて大企業の社長にまでなれると、私もずっとディベートを教えている身としてとても嬉しく思います。英語を学ぶ上で、ディベートがいかに効果的であるかを実証された内藤社長であり、松山社長であられると思っています。

会社でのご経験を伺いたいのですが、在職中にフルブライト留学生ということで、コロンビア大学での法学修士、LLM、Latin Legum Magister、1993年の5月に修士を取得されました。 一年間、アメリカの大学院で学位を取られるっていうのはかなりのチャレンジングなことだと思うのですけれども、そこでもディベートは活かされましたか?

内藤:実は日米交歓ディベートの後に、一年間、交換留学でアメリカに行きました。上智大学と交換プログラムがあるミネソタ州のセントジョーンズという大学に留学して、日本に帰ってきて就職したと言う経緯なのです。アメリカの大学の勉強は非常に厳しくて、大変苦労しました。アサインメントも多いですし、クラスの中でのディスカッションも参加しないと単位がもらえません。ディベートの経験があったからなんとかついていけましたが、大変だった印象が強くて、ビジネススクールとかロースクールのようなプロフェッショナルスクールには行きたくないと思ったので、会社に入って就職しました。

アメリカへ留学する必要のない部署を希望していたのですが、法務部に配属になりました。それから何年か仕事しているうちに、もう一度アメリカに行って勉強する必要性を感じるようになりましたので、留学をすることにしました。それでフルブライト留学基金の試験を受けて合格させていただいたのですが、その年にアメリカのロースクールの奨学金に合格したのは私を含めた4人で、2人が早稲田と京大の教員で、もう一人は若手の弁護士だったのです。当時は財団の奨学資金が足りず、私だけが私企業から留学する人間だったので「財団だけに頼らずに会社にも出してもらうように」ということで、生活費を賄う充分な奨学金がもらえませんでした。そこで20代後半の若手社員の分際で当時会長だった服部禮次郎さんにお目にかかり会社としてのサポートをお願いしたところ、「内藤さん、あなたみたいな人がいるのは会社にとって大切だから、私がなんとかしましょう」というお言葉を頂き、会社から資金を足して頂いて留学しました。やはり想像していたように大変厳しいロースクール生活でしたけれど、 これまたディベートの経験があったから、一年間でなんとか単位も取りましたし、卒業できました。

金野:内藤さんは大学を卒業された1984年4月に株式会社服部セイコーに入社されて、その6年後にコロンビア大学のロースクールに留学をされました。留学がきっかけなのでしょうか、2002年にSeiko Australia Pty Ltdの取締役社長になられましたが、これが初めての海外赴任ですか?

内藤:そうですね。アメリカでロースクールを出てから日本に戻って、法務をずっとやっておりました。実は法務をやっている人間が海外現地法人の社長になるのは私が第一号で、その後も例はないのです。通常、海外現地会社の社長になるのは、海外営業の経験者や海外マーケティングの経験者が普通なのですが、私の場合は当時の海外部門の専務から、「内藤さん、あなた、入社してからずっと法務だけど、少しは事業の方を経験してみたらどうかね。その気があるのだったら、異動は私が人事に働きかけて実現できるよ」と言ってもらったのです。それで事業部門の方に移って即、半年ぐらいですね、今度は「オーストラリアの子会社の経営をやってみないか」というふうに言われました。

金野:最初から社長ですか?それは大変ですね。

内藤:大変でした。当時41歳でしたが、オーストラリアに行くのも初めてでしたし、腕時計の海外事業を経験したことがなかったので、時計の基礎的なことをほとんど知りませんでした。例えば値段の付け方や商品開発の流れなど、ルーティンの時計事業の業務を知らないままで、オーストラリアの社員も誰一人として知らないまま、オーストラリアに赴任しましたので、最初戸惑うことが多かったです。

金野:現地オーストラリアの各部門の専門スタッフたちからしますと、日本から来られた社長である内藤さんが法務出身で、時計事業の業務のことをあまり知らないということになりますね。これはどのように克服されましたか?

海外マネジメントで問われる交渉力

内藤:こちらもドギマギしているのですが、向こうの方が、おっしゃる通り、びっくりしたと思います。私は日本から赴任してきたSeiko Australiaの社長として5代目だったのですが、過去の前任者は全員、海外営業または海外事業部門の出身の人でした。当時は、現地の幹部社員、12、3人のマネージャーが居たのですが、全員を集めて、「私、会社に入って今までほとんど腕時計の事業をやったことないので、正直よくわからないのだ。例えば日本からどういう商品を仕入れるのか、それは仕入れ担当のあなたに決めてほしい。承認が必要なら私はサインするから。値段をつけるのも、商品のことも、あなたの方がよくわかっている。オーストラリアで何が売れるかもわかっているのだから。お願いしますね。(宣伝のマネージャーには)あなたにはどういうメディアで、どういう宣伝をするべきなのかの判断を全部お任せします。でもリーガルは私に相談してほしい。私が弁護士の活用戦略とか、そういうのをやるから」と伝えました。社長と現地幹部との仕事の分担が、その前の4代の社長と真逆ですので、「本当にいいのですか?」と言われましたが、「だって、あなたは20年、あなたは25年、あなたは15年、この会社でその専門のことをずっとやっているのだから、私なんかよりはるかにわかっているでしょう?私は本当に分からないので、私は黙ってサインをして承認します。その代わり、結果が出なかったら、あなた方が責任とってくださいね。担当から外します」と伝えました。

金野:任せる代わりに、責任は全部取ってくれと。そうすると皆さん自立心が芽生えるといいますか、自分で結果責任を取ることになりますね。そういうやり方はやっぱりオーストラリアではよかったのですか?

内藤:権限と責任とは当然裏腹な関係だと思っていましたが、当時の現地スタッフはそれまでそんなこと言われたことがなかったのでびっくりしたみたいですね。

普通の会社であれば、それぞれの個人が専門能力に基づいてポジションを異動するじゃないですか。ひとつの会社で実績を残し、もっと高いポジションで別の会社に引っ張られたりしますし。ですから一人一人がプロフェッショナルなはずですよね。結果が出なければ変わる、変えられるというのが当たり前だと思っていましたので。

金野:なるほど。マーケティングや技術、商品開発などはそれぞれの分野のプロフェショナルにお任せして、それで結果責任をとってもらうというのは、確かにメイクセンスですね。 素晴らしいです。

その後、ご自身の実績があって出世街道に進まれたのだと思いますけれども。その後2016年に今度はSeiko Corporation of Americaの取締役会長としてアメリカに赴任されますが、アメリカではどういう経営をされたのでしょうか?

内藤:オーストラリアから日本に2006年に帰国し、また法務に戻って法務部長として着任しました。私のキャリアは法務部門と事業部門の間で行ったり来たりしていますけどね。そこからずっと法務担当で取締役になって、そして経営企画や財務部門も含めた、持株会社のCFO的な立場の常務取締役になって、というステップでしたので、もうこのまま事業部門には戻らないだろうと思っていましたが、2016年にアメリカの事業子会社の業績が非常に悪いということと、私どもの高級時計ブランドであるグランドセイコーが海外で伸び悩んでいたので、グランドセイコーの売上を延ばすこととアメリカの事業の立て直しで、アメリカに行ってほしいという話になりました。

それでまた事業の現場に行くことになりましたが、アメリカはオーストラリアと比べて売上も十倍近く大きい会社でしたし、社員もたくさんいましたし、業績も厳しかったので、オーストラリアで経験したことはもちろんすごく役に立ったのですが、苦労という意味ではオーストラリアよりもアメリカの方が大きかったですね。

金野:十倍の規模があるアメリカの子会社でもご活躍されたということですね。アメリカ人を束ねる中ではどのようなご苦労がありましたでしょうか?

内藤:オーストラリアよりもアメリカの方が、従業員の流動性が高くて転職して入ってきたメンバーが多かったです。したがって、みんなプロ意識を持っていて、自分のやり方みたいなものが固まっている人が多く、逆に言うと改革も難しい状況でした。「グランドセイコーという高級時計ブランドをアメリカで大きくしたい」ことを伝えても、彼らは自分たちの経験からして「それは非常に難しい」と言って、できない理由を並べることが多く、非常に苦労しました。

金野:よく欧米の企業ではビジョン・ミッション・ストラテジーというのですが、そういったそれぞれの方式がある転職組ですと、やはりセイコーさんの社是といったものを理解して浸透させることなどに心掛けたのでしょうか?

内藤:もちろん、日本の親会社の100%子会社ですので、日本はこういうことを考えているとか、歴史などを教育はしているのですが、基本的にアメリカの子会社はそれなりの規模もありますし、申し上げたように流動性というか、転職組が多いものですから、独立意識のようなものの方が強くて、オーストラリアの方がどちらかというと、日本の会社の出先という感じがあったのですが、アメリカの会社はもう歴史も50年ぐらいありましたし、そういう意味では社員の中に日本の方を向いて仕事をするという意識があまりなかったですね。自分たちの仕事のやり方があって、日本人の社長は「どうせ3、4年したらまた変わるんだよね」ということで、表向きでは話は聞いていますが、本当に心の底からそれに従っているかというとそうでもない、というような経験を当初はずいぶんしました。

ブレない強いリーダーシップ

金野:日本的なリーダーシップと欧米人のリーダーシップ、特にアメリカのリーダーシップというのはだいぶ違いますよね。日本はどちらかといいますとコンセンサスを重視しますが、アメリカですと大統領もそうですし、強いリーダーが求められるように感じます。そこで内藤さんが心がけたことはどんなことでしょうか?

内藤:日本人の一般的なイメージだと、アメリカの会社は人間関係がドライなプロフェッショナル集団で、上下関係というよりは、自分の待遇や自分のスキルで転職して行くようなイメージがあって、日本は組織への帰属意識が強く、仕事の後みんなで飲みに行ったりするようなイメージがあると思うのですが、実はアメリカは組織内の人と人との繋がりが意外に強くて、いわゆるウェットな人間関係があって、親分が転職すると、その親分と一緒に転職するとか、親分に引っ張られて転職するようなことが随分ありますね。例えば親分が自分の家で週末にバーベキューやるからというと、その親分と親しいグループはみんなそのバーベキューに参加するみたいな、日本以上にある種ウェットな社会の部分があるように思います。その中で日本人の駐在員の立ち位置というのは、3年、4年経つとまた日本に帰っていきますし、なかなかそういう繋がりを作ることが難しいですよね。1〜2年経ってようやくその人となりがわかってくると、もう来年ぐらいには帰るかもしれないとなると、そんな濃密な人間関係ができませんし、濃密な関係ができないと難しいことをお願いしても、「わかりました」と言いながら、そんなに熱心にはやらなかったりで、コントロールするのが非常に難しいことに気が付きましたね。

金野:アメリカでは大統領が変わると、共和党か民主党とかで全部変わりますね。それに近いものが民間にもあると言うことですか?

内藤:ですから私は着任して1年ぐらいで幹部社員を全員入れ替えました。私が言っている内容について「難しい、できない」ということで返ってきますので、「あなたがやれる自信がないのなら、あなたの部下は尚更やれる自信がないと思うので、お引き取りください」とお願いしましたね。

金野:そうすると、日本では労働法の関係でそういった解雇は結構厳しいと思いますが、アメリカではどのような感じでしょうか?

内藤:一般的には雇用契約では会社都合で解雇するときには退職金の上乗せで何ヶ月というのはだいたい決まっているので、まずは契約社会としてそのように処理されることが多いです。ただそれは原則ですので、例えば勤続20年で年齢が高い社員ですと、age discrimination によって自分はクビになったという訴えが可能です。弁護士社会のアメリカですから、そういう訴えを引き受ける成功報酬ベースの弁護士はたくさんいます。幹部社員で給料の高い人で、本人に代わって「委任を受けたので私が交渉します」というレターを送ってきた弁護士が何人かいました。それで私が「よろしいですよ。私が直接お話しましょう」と対応したケースがありましたね。

金野:そこで法務の経験が活かされたのですね。それは素晴らしいです。その後、今度アメリカのあとはヨーロッパですか? 2019年にSeiko U.K.の取締役会長と同時に、ヨーロッパ各国の現地法人の取締役。今度はアメリカからヨーロッパに舞台が移られるわけですね。

内藤:アメリカの最初の1年、本当に苦労して大きな赤字を作ってしまったのですが、2年目にだいぶ回復しまして、3年目には殆ど目処がついたというか、いわゆるV字回復みたいな形になりました。そうしましたら東京から「いったん日本に帰って来て欲しい。ヨーロッパを次に改革しなきゃいけないので、それにはあなたが陣頭指揮をとるように」というミッションが来まして、それでヨーロッパの組織再編など、外部から人を採用したり、協力してもらえない幹部社員にはまたお引取りを頂いたりで、そのようなことをやりました。

ディベートが人生に与えたインパクト

金野:それは素晴らしいです。内藤さんは大学でディベートに出会われて、それでセイコーさんに入られて、法務部からスタートして、事業の分野でもオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパに渡って再建請負人のような素晴らしいご活躍をされてきたわけです。人生にディベートが与えた影響が非常に大きいというふうに感じるのですが、そういう理解でよろしいですか。

内藤:はい。自分のキャリアを考えた場合に、法務、それからビジネスの方でも、すべて土台はディベートです。特に海外で仕事をする、海外事業をやる上では、ディベートの経験がなかったら、もう全く今の自分はないというふうに思っています。

先日、日米交歓ディベートでペアを組んだ松山社長と、5年ぶりぐらいに会って話をしましたが、まさに今のような話が出ました。 彼はビジネススクール(MBA)に留学して、彼のキャリアはマーケティングが主で、マーケティングを軸にしてマネジメントをずっとやって来ました。私はリーガルの方を軸にして、マネジメントやってきたということで、分野はそれぞれ違うのですが、ビジネススクールの経験もディベートがなかったら無理だったとおっしゃっていました。ビジネススクールもいわゆるソクラテス・メソッドじゃないですけど、教授との対話、議論がありますし、考え方、議論の組み立てすべてにおいてやはりディベートが基礎になりますので、ビジネスもアメリカの大学院も、ディベートに我々は助けられたということを2人で会話しておりました。

金野:いま日米会話学院では社会人のための色々なプログラムを持っているのですが、大学生は日米学生会議ですね。今年も日本開催ということで、京都、長崎、東京で、8月に約3週間にわたって日本全国から学生が集まります。日米合わせて70人超ですね。ここで日米の学生のディベートがあるので、私は非常に楽しみにしているのです。

英語学習者には、英語の勉強の仕方っていうのは人それぞれだと私は思っていて、ディベートだけじゃないと思うんですが、何かアドバイスとして、こうするとたぶんうまくいくよとかそういうアドバイスというのはございますか?

内藤:私の場合には、先ほど申し上げたように、大学でESSに入って一年生の時には、周りに英語のできる人たちがたくさんいて大変苦労しました。それでなんとかうまくなりたいと思ったのですが、私の場合には文字を読んだり書いたりして吸収するよりも、音で吸収する方が自分に合っているように思いました。その当時、極東に駐留する米国軍人と家族のための英語放送、FENラジオ放送というものがあって、そのニュースを録音してディクテーションして、みたいなことをいつもやっていましたね。

金野:そうですか。今の時代は音声教材がありふれていますよね。例えばNHKのニュースをボタンひとつ押せば英語で聞けるとか、昔はそういうのがなかったので、音声教材をどうやって探すかというのがありましたね。

もう一つ、ディベートをおやりになって、「説得とは何なのか」を考えた時に、例えばアリストテレスが説得の3原則を「ロゴス・イーソス・ペーソス」としていますね。ロゴスは言葉で、イーソスは人権主義やダイバーシティなどといった価値観、最後にペーソス、emotion、感情ですね。頭で分かって相手を言い負かしても、その人が必ずしも説得されるわけではない。なぜなら、根底に横たわる価値観が違っていたり、感情があったりですね。これは時代を超えて今なお通用しますので、アリストテレスという人はすごく偉大な人だったと今更ながら思うのですが、内藤さんは日々社長として、「和洋折衷」を心がけていることをすごく感じます。経営者として心がけている、例えば座右の銘などございましたらお聞かせいただけますか?

自分の信念を支えてくれる座右の銘

内藤:組織の中では上になるに従って、決めなければいけないことが多くなります。下の場合には、上の人に判断を預けて決めてもらうことが多いのですが、上になるとやっぱり自分で決めなきゃいけません。それを痛切に感じたのはオーストラリアにいた時の経験で、現地のジェネラルマネージャーという勤続35年の生え抜きの大ベテランのトップを辞めさせることをした時ですね。自分の中では大変葛藤がありまして、いろいろ組織の再編を考える中でその決断に至ったのですが、なかなか踏み切れませんでした。小さいお子さんがいるなど家族環境も知っていましたし、再婚したばかりで若い奥さんがいることもですね。いろいろ頭の中にありましたので。その時に相談をしていた社外の人事コンサルタントは、私の10歳ぐらい上の、かなりベテランの女性コンサルタントだったのですが、「あなたの仕事は決めることなの。人事で人を切るというのは、大変な決断だと思うけれども、それをしないことによって、彼自身も力が発揮できないような組織に閉じ込められ、彼も浮かばれないし、部下の人たちも不幸だし、全体の業績が出なければ、社員全員が不幸だし、それを断ち切って彼を新しい人生のステージに送り出すことができるのは、あなたしかいない」ということを言われました。 それで、そのような見方もあるのかと。辞めさせるという事象だけを捉えていましたが、もう少しこう全体を見た上で、決断をしなければいけないのだと思ったのですね。

プロ野球の監督をされていた野村克也さんの本に、「覚悟に勝る決断なし」という言葉がありますが、何か決断する時に、やはり覚悟を決めて、もう後戻りせずに、これが正しいと思って決断するのだと。そうしないと、いつも迷ってしまったり後悔したりすることが起きます。その後、その経験もあって、私はなにかを決める時には、まずは一生懸命考えるのですが、一旦決めたらそれで迷わずに決断することをずっと心がけています。

金野:「覚悟に勝る決断はなし」ですね。野村監督は色々な名言を残しています。野球の人生ではあったわけですが、経営に通じるものが多々ありますね。本日はたくさん貴重なお話をお聞かせいただき、どうもありがとうございました。ご健康とますますのご活躍を期待しております。

2023.6.9日米会話学院にて
(左:セイコーウオッチ株式会社代表取締役社長 内藤/右:日米会話学院学院長 金野)

日米会話学院では75年以上にわたる実績をもとに、成功する研修のお手伝いをさせていただきます。

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